予感

家に帰り自室に戻ると、綾乃はいつかのように例の球体を弄んでいた。

「またそれ出しちゃったんですか?」

「……悠介くん。帰ってきてたんですね」

遊ぶことに夢中でこちらに気付かなかったのか、綾乃はビクリと身を震わせた。

何かを思い出したように、彼女は机の中におもちゃをしまい込む。

「別に、変に気を使わなくても大丈夫ですよ。……そんなに好きならあげましょうか?」

「良いんですか?」

こちらの提案に綾乃はキラキラと目を輝かせている。

意外と子供っぽいところもあるんだなと思う。

どこにそのスイッチがあるのか、時折今のような顔を彼女は見せてくれるのだ。

「……いえ、やっぱりやめておきます。これは悠介くんの大切な物ですからね」

我に帰った綾乃の表情は、いつも通りの大人びたものに戻っていた。

ふと、机の上の様子がいつもと違うことに気付いた。

綾乃に隠れていて今まで気付かなかったが、その後ろには何かが置かれている。

その正体を確認しようと身を乗り出すと、綾乃はそれに合わせて身体を動かした。

正面からすれ違う時に、同じ方向に行ってしまう現象がある。

今まさに、それと同じことが起きたのだ。

右から回り込もうとすると、またしても彼女は同じタイミングで身体をスライドさせてきた。

綾乃は後ろで手を組み、無言でこちらを見ている。

その瞳の奥に潜む思考は、全くと言って読み取れない。

仕方なく再び左に身体を傾けると、綾乃はやはりついてきた。

間違いない。

彼女はわざとやっている。

そっちがその気なら。

悠介の対抗心はすっかりと火が点いていた。

メトロノームのように二人の身体は左右に揺れ続ける。

その間も、一言も言葉は交わされない。

それなのに、綾乃はこちらの動きを全て読むようにして先回りしてくる。

右に行くと見せかけて左。

左に行くと見せかけて右。

揺さぶりをかけるようにフェイントを織り交ぜるも、ことごとく対応されてしまう。

完全に綾乃の手の上で転がされている。

幾度となく味わった感覚だ。

このままではキリがないと考えた悠介は、仕方なく奥の手を使うことにした。

心の中で謝罪しつつも、それと反して言葉を吐き出していく。

「何を隠してるんですか? 今教えてくれれば痛い目見ずに済みますよ」

綾乃のことをこんな風に挑発するのは心苦しく思いつつも、どこか楽しんでる自分がいる。

胸の中でざわめき続けるこの感覚は、一体何なのだろうか。

「悠介くんにしては大きく出ましたね。そんな簡単に私は負けませんよ」

綾乃は挑発し返すように不敵な笑みを浮かべている。

その笑顔は、いつものそれとは明らかに違うものだった。

「分かりました。後悔しても知らないですからね」

待ってましたと言わんばかりに、悠介は綾乃の唯一の弱点を突いた。

匂いを嗅ぐような仕草をわざとらしくすると、彼女の顔は徐々に赤みを増していく。

綾乃は自分の匂いを嗅がられることが苦手だったのだ。

いつも通り、綾乃からは優しさを絵に描いたような甘い香りがする。

悠介は今回、敢えて何も口にしないという選択を取った。

そうすることによって、何を思っているのか分からなくさせようと考えたのだ。

作戦が功を奏したのか、綾乃は焦ったように顔を背けている。

綺麗に整えられた艶やかな髪の間からは、真っ赤に染まった耳がこちらを覗いていた。

「隙あり」

あれだけ軽い身のこなしをしていた綾乃は一歩も動けず、勝負は呆気なく幕を閉じた。

その背中に秘められていたものを垣間見、悠介は拍子抜けした。

「封筒……? これ、どうしたんですか?」

はぁ、と綾乃が大きく溜息をついた。

観念したようにこちらを振り向くと、彼女は自分の胸に手を当てて呼吸を整えていた。

普段冷静な彼女がこんな風に取り乱している姿を見ると、なんだかこちらも落ち着かなくなる。

それを悟られないように頰を書いていると、綾乃はポツリと呟いた。

「……それは、手紙です」

「手紙……?」

どうして?

誰に?

なんのために?

疑問の集中砲火を浴び、悠介の頭はショートしかけていた。

その答え合わせをするかのように、綾乃はゆっくりと話し始める。

「私は、もういつ消えてしまうか分かりません。そうなる前に“あの人”に想いを伝えたいと思ったんです。私のことが見えなくても、こうして文字にすれば伝えられるかもしれないですからね」

綾乃の台詞に、心臓が不規則な音を鳴らした。

暑くもないのに、どんどん汗が噴き出してくる。

何か言いたいのに。

言わなきゃいけないのに。

その意思と反して口からは何も発されない。

まるで金縛りにあったかのように身体が動かない。

思考が淀み、身体の感覚が無くなっていく。

そんな悠介を置き去りにして、綾乃は続ける。

「私の願いは、もう叶えられました。……だからきっと、いつ消えてもおかしくないんです」

「そんなことないですよっ!」

ようやく発した言葉は反射的なものだった。

何に対して否定したのか、自分でも分からない。

整合性のかけらもない、感情だけが先走った言葉。

それはあまりにも脆く、痛々しい響きを帯びていた。

「なんで、そんなお別れみたいなこと言うんですか……。ようやくこれからって時に……。俺は、綾乃さんに変えさせられたんです。綾乃さんがいなかったら、俺はこんな風になれなかった。……だから、だから……」

みっともない。

感情的になる自分を客観的に見て、そう思った。

ふと、頭部が柔らかな感触に包まれた。

綾乃の手だ。

触れられた感覚に、悠介は瞬時に状況を理解できた。

「それは、違いますよ。悠介くんは何一つ変わってないです」

「……えっ?」

予想外の言葉に、思わず間抜けな声が漏れた。

「悠介くんの優しさや人柄は、最初からあったものです。ただ、色々なことがあってちょっとだけそれを見失っていただけ。私は、それを思い出させる手伝いをしただけですよ」

そう言って、綾乃は頰を緩ませる。

その表情に、胸が熱くなる。

「悠介くんはもう大丈夫。これからは一人でも頑張っていけます。今回のことも、君は私を置いてって積極的に行動していた。それがあったから、家族と仲直りすることが出来たんですよ。……全部、君が頑張ったことです」

綾乃がこちらを労わるように優しく頭を撫でている。

もう、限界だった。

身体が、心が、言うことを聞いてくれない。

一度決壊した想いは止まることを知らず、簡単に溢れ出した。

崩れていく姿を見かねたのか、綾乃は悠介のことをゆっくりと抱き寄せた。

身体が密着し合うと、嫌でも彼女の匂いに包み込まれる。

柔らかい。

温かい。

綾乃は何も言わずに、ただただこちらを待っていてくれた。

それに甘えるようにして、悠介はその胸の中で涙を流し続けた。

この構図は、圭吾を連れ戻した日に悠介が彼にしてあげたことだった。

しかし、今は悠介が包まれる側になっている。

……もしかしたら、圭吾も今の自分と同じような気持ちだったのかもしれない。

混乱しているはずなのに、そんなことをうっすらと考えていた。

 

「……取り乱してすみませんでした」

「いえ。子供みたいで可愛かったですよ」

「まだ、子供ですから」

そうだ。

自分はまだまだ未熟なのだ。

少なくとも、目の前にいる彼女よりはずっと。

いつか綾乃のように、何かを救い、守れる人間になりたい。

いつの日か、そう思うようになっていた。

それを実感して、ようやくこの気持ちが意味することを理解した。

これは、きっと単なる憧れなんかじゃない。

初めての感情に、自分でも確信を持つことが出来ない。

それでも、今感じてるこの気持ちは間違いなく本物で、それを伝えるくらいなら出来ると思った。

「……俺、綾乃さんのことが好きです。尊敬してます。例え、綾乃さんが“あの人”のことしか見えてなかったとしてもいい。……それでも、俺は綾乃さんが好きです」

始めは驚いたのか、息を呑む音がした。

やがてそれを受け入れたのか、真顔となる。

そして、嬉しいのか嫌なのかなんとも言えない複雑な表情を浮かべて綾乃は黙ってしまった。

「……ありがとうございます」

その声を聞くまでに、実に十秒ほどの間があった。

か細くも力強い声音だった。

綾乃が自分の言葉に何を感じたのかは分からない。

ただ、ずっと何かを考えていて、ようやく決断を出したように見えた。

だからこそ、悠介はそれ以上何も言うことが出来ない。

告白をしただけで、付き合ってくださいと言ったわけではない。

それを踏まえれば、綾乃の返答はごく普通のものだ。

それでも、彼女なら何か言ってくれるのではないかと期待していた。

からかいでもなんでもいい、ただ一緒にいる口実が欲しかった。

そこで、あることを思い付いた。

もちろん一緒にいたいという気持ちはある。

でも、それ以上にこれは自分がするべきことなんだと思った。

「……だから、今度は俺が綾乃さんに恩返ししたいです。いえ、させてください」

「えっ?」

綾乃は意表を突かれたように目を丸くしている。

全てを先回りしていていて、「予想通りです」と言わんばかりの態度を取る彼女がこんな反応をするのは、なかなかに珍しかった。

再び考えるようにして、綾乃は「そこまで言うなら仕方ないですね」と笑った。

「こういうこと聞くのはなんか違う気もするんですけど、こんなことしたいとか何かありますか?」

「それは思い付かないので、何をしてくれるかは悠介くんにお任せします。……ただ、して欲しいことならありますよ」

自身の頰に右手を添えて、綾乃は言う。

「なんですか?」

「それは、私に何かあった時にあの手紙を届けてもらうことです。さっきも話した通り、私はいつ消えてしまうか分かりませんからね。こうして話してるのも、本当は奇跡なのかもしれません」

奇跡。

確かに、この状況を表現するには適していると思った。

綾乃が見えること、話せること、触れられること。

よくよく考えれば、全てが奇跡なのだ。

「綾乃さんがそう言うなら、分かりました」

「ただし、中身は絶対に見ちゃいけませんからね。乙女の秘密というやつです」

それをアピールするかのように、台詞と合わせてウィンクを寄越した。

「分かってますよ」

「まあ、悠介くんに限ってそんなことするとは思ってませんけどね」

綾乃はわざとらしく釘を刺してきた。

こんな風に冗談めかした会話をするのも久しぶりな気がして、二人はしばらくの間下らない会話を繰り広げていた。

 

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続き→相談

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