消毒

「気持ちよかったです。いいお湯でした」

脱いだワンピースを再び羽織り、綾乃は顔を手で仰ぐ。

久し振りにお風呂に入れたことで、彼女は満足したようだった。

急いで服を着た悠介は、細心の注意を払いながら自室へと足を運ぶ。

綾乃の姿は、自分以外の誰にも見えていない。

それが分かっていても、万が一のことを考えてしまう。

ただでさえ家族との関係が最悪なのに、その上無許可で女性を家に上げてるなんてことがバレたら、とんでもないことになる。

それだけは避けたいと考え、悠介の動きは不自然なものになった。

「……それじゃ、返って怪しまれてしまいますよ」

背後から突然声をかけられたことにびっくりしながらも、声を潜めながら応答する。

「そうですね」

悠介とは対照的に、綾乃は落ち着いている。

これではどちらがお邪魔してるのか分からないではないか。

と、心の中で突っ込んだ。

ようやく自室に辿り着き、切迫感から解放された悠介はベットに身を投げ出した。

「疲れた……」

「お疲れ様です」

そう言って、綾乃は隣に腰をかける。

「悠介くん。その怪我手当てしますので、一度起きてください」

「別にいいですよ。大したことないですし」

「ダメですよ。こういうのは最初が肝心です。しっかり消毒しないと、後で痛い目見ますよ?」

綾乃の言葉に、胸がズキリと悲鳴を上げた。

それは、過去の自分を責められている気がしたからだった。

彼女に心の底まで見透かされているような気がして、どうにも落ち着かなかない。

少しでも気を紛らわせようと、悠介は自身の顎に手を持っていく。

すると、チクリと棘が刺さるような感触がした。

「分かりました。じゃあ、お願いします」

綾乃は救急箱を持ち出し、早速手当ての準備を始めた。

それがどこにあるのか教えていないのに、どうして彼女がそれを知っているのか、悠介には疑問だった。

「幸い、大きな怪我はないですね。お顔の傷を消毒しますので目を閉じていてください」

シュッシュッ、と消毒液をガーゼに浸す音が聞こえ、数秒後に来るであろうダメージに身を構える。

しかし、そんな抵抗も虚しく、鋭利的な刺激は悠介の皮膚をあっさりとすり抜けた。

「しみますか?」

「ちょっとだけ」

「もう少しで終わりますからね」

綾乃はできるだけ傷が痛まないように、優しく、丁寧に、悠介の瞼を撫でた。

綾乃が目の前にいる。

そう感じたのは、もう一つの刺激が悠介を襲ったからだった。

「いい匂いがする」

心の中で呟くつもりだったそれは、自分でも気付かない内に漏れ出していた。

その瞬間、彼女の動きがピタリと止んだ。

手当てが終わったのかと思い、恐る恐る目を開くと、そこには頰を桜色に染めて俯く綾乃の姿があった。

うっすらと色づく朱は真っ白な肌によく映えていて、そんな姿に心臓が高鳴る。

「あの、綾乃さん?」

「なんですか?」

何事もないように振る舞っていたが、その瞳は悠介を映していない。

明らかにおかしい様子に、頰の色を示す意味がお風呂の時に見たそれと違うということに、悠介はようやく気が付いた。

「もしかして、照れてるんですか?」

図星だったのか、綾乃は目を少しだけ見開く。

落ち着きなく手を触る様子は、彼女の動揺を表していた。

「綾乃さんもそういうことあるんですね」

「悠介くんは私のことをなんだと思ってるんですか?」

「お風呂に入った時はあんなに堂々としてたので、てっきり本当に羞恥心がないのかと思いました」

「私にだって恥ずかしいと思う気持ちはありますよ。ただ、そのポイントが違うってだけです」

「へえ」

大人っぽくて落ち着きのある綾乃がモジモジとしている様子は、とてもいじらしい。

そんな姿を見ていたいと思った悠介は、いつの間にか彼女に釘付けになっていた。

「まだ消毒は終わってないですよ。早く目を閉じてください」

それが本当かどうかは分からなかったが、彼女なりの照れ隠しなんだと思い、悠介は大人しく言うことを聞いた。

再び触れられた指は、少しだけ震えていた。

 

日付は既に変わっていた。

昨日起きたことがあまりにも濃密で、悠介は疲弊しきっていた。

隣の部屋には弟の圭吾がいる。

まだ勉強をしてるのだろうか。

悠介の脳内は、いつでも圭吾に支配されている。

そのことに嫌気がさし、頭からその存在を追い払う。

「綾乃さん、もう寝ますか?」

「私はどちらでもいいですよ? ……あっ、いっそこのまま悠介くんの寝顔を見るのもありですね」

「やめてくださいよ」

横になりながら立っている綾乃を見ると、彼女は前屈みになりながら顔を覗き込んできた。

「さっきのお返しですよ」

「もしかして、意外と根に持つタイプですか?」

「どうでしょうね?」

そう言って、綾乃は優しく微笑む。

この笑顔を見ていると、なんだか落ち着く。

その影響か、眠気が波のように押し寄せてきた。

「……明日も学校ありますし、そろそろ寝たいです」

「分かりました」

そこで、あることに気付いた。

「綾乃さんベット使いますか?」

「えっ?」

「いや、女の人を床で寝させるのはなんか気が引けますし」

「私は幽霊なのでそれでも問題無いですよ。でも、悠介くんがどうしても私と寝たいっていうならいいですよ?」

「どうしてそうなるんですか……。綾乃さんがベットで寝るなら俺は床で寝ますよ」

「私のこと意識してるんですか?」

「そんなんじゃないですよ」

「じゃあ一緒に寝ても問題ないですよね?」

いつの間にか、彼女のペースに乗せられてしまっている。

今更気付いたところですでに手遅れで、悠介は自分の迂闊さを呪った。

「もう勝手にして下さい……」

眠気がピークに達していたこともあり、悠介は投げやりに答える。

意識が薄れていくのを感じ、世界がまどろみ始めた。

それに抵抗する力は残っておらず、後はただ身を委ねるだけだった。

 

ふと、目が覚める。

視界は闇に包まれている。

なんだか、とても長く眠っていた気がした。

もしや、丸一日経ってしまったのだろうか。

そんなことを考えてしまい、それを否定するために手探りで携帯を探すと、何やら柔らかいものが当たった。

その正体を暴いてやろうと目を凝らすと、やがてその姿はフワリと輪郭を表す。

確認するために掛け布団を捲ると、そこには身体を丸めて眠る綾乃の姿があった。

不思議な寝方をする、というのが率直な感想だ。

右肩にかかるワンピースの紐はずり落ちていて、もう片方のそれによって彼女の身はかろうじて守られていた。

あまりにも無防備すぎる格好に、悠介は少しだけ呆れる。

可能な限り綾乃を見ないようにして服装を戻すと、妙な違和感を感じた。

「そういえば、電気消したっけ……?」

それだけではなく、ご丁寧に冷房までついている。

そのおかげで寝汗をかくこともなく、お風呂上がりのままのスッキリとした状態だった。

隣で眠る幽霊がしてくれたことに違いないと思い、心の中で感謝する。

そこで、当初の目的を思い出した。

今度こそ携帯を見つけてボタンを押すと、暗闇の中に一筋の光が灯った。

寝起きの瞳にはあまりにも刺激が強い。

太陽でも見るかのように手で庇を作らながら、携帯画面を覗き見た。

 

七月二日 四時二十五分

 

表記された時刻を確認し、悠介は安心する。

画面の光に目が眩み、とてもじゃないが見続けられるものではなかった。

それに反応したのか、隣で眠る綾乃が身じろいだ。

ボールのように丸めていた身体を開き、仰向けへと体勢を変える。

その拍子に、隠れていた寝顔は悠介に晒されることとなった。

そんなことはお構い無しといった様子で、彼女はスヤスヤと寝息を立てている。

その姿に悪戯心をくすぐられ、悠介は綾乃の頰に手を伸ばした。

目的地にたどり着くと、抵抗感を全く感じさせないまま人差し指がめり込む。

すると、綾乃の眉がピクリと動き、やがてゆっくりとその瞳は幕を開いた。

「ごめんなさい。起こすつもりはなかったんですけど」

「……いえ、おはようございます」

「おはようございます」

まだ半分意識が眠っているのか、綾乃から発せられる言葉は安定していない。

あくびを左手で隠しながら、彼女はムクリと上半身を起こした。

見下ろしていたはずの彼女の顔が、すぐ隣までやってくる。

「色々とありがとうございます。おかげさまでよく眠れました」

「……私も、その方が寝やすかったので。むしろ、勝手なことしちゃってすみません」

「大丈夫ですよ」

「悠介くんはもう一度寝るんですか?」

「今寝るとまた遅刻しちゃうので、このまま起きてます」

特に意味もなく、悠介はカーテンの奥に広がる闇を見渡す。

今になって、綾乃が自分に何をするつもりなのか気になった。

彼女は、『手伝う』とだけ言った。

しかし、具体的に何をするつもりなのか、皆目見当もつかない。

「じゅあ、私も学校についていきます」

「今日は日差しがいつもに増して強いって予報ですよ。綾乃さん、苦手なんですよね? 暑いの」

「大丈夫です。あの麦わら帽子があるので問題ありません」

自信満々な様子で、綾乃は机に置いてあるそれを指差した。

「そういえば、あれはどこから手に入れたんですか?」

「気付いた時にはありました。この服もそうです」

そう言って、彼女はワンピースの胸元を二度ほど引っ張る。

幽霊が見えるという時点で、普通ならあり得ないことなのだ。

それを考えれば、彼女の衣類の出所が分からないくらいでそこまで驚きはしなかった。

「そんなわけで、私はあの帽子に守ってもらいます」

退路を塞がれ、悠介は行き場を失う。

本音を伝えるべきか悩み、逡巡する。

どうしようもなくなって天井を見た。

しかし、当然そこに答えなど存在しない。

「それとも、私に来て欲しくない理由があるんですか?」

やはり、綾乃の勘は鋭い。

悠介くんのことならなんでもお見通しです。

と言わんばかりに察してくる。

全てにおいて先回りされているような気がして、この人には敵わないという感情を植え付けられた。

「昨日も言いましたけど、学校で嫌われているんですよ、俺。学校だけじゃなくて、家でもそうですけど。だから、なんていうか……」

「そんな姿を見られるのは嫌だ。ですか?」

「……はい」

「なら、やっぱり私が一緒に行かないとですね」

「なんでですか。嫌がらせじゃないですよね?」

「私がそういうことするように見えます?」

「そうじゃないですけど……」

悪意から発せられたものでないことくらい、分かっていた。

しかし、つまらないプライドが綾乃の善意を退けようとする。

そんな自分が嫌になりつつも、それを受け入れる勇気がどうしても持てなかった。

「私が一緒にいれば、悠介くんは一人にはなりません。それに、その方が学校に行きやすくなるんじゃないかと思いまして」

綾乃の言うことは事実だ。

彼女が一緒にいてくれることを考えれば、無様なところを見られるくらい、なんの問題もないのではないか。

それに、彼女はそんなことで他人を軽蔑するようなことはしない。

悠介はそう信じていた。

「私は、君の味方ですよ」

その台詞は、この世界にあるどんな言葉よりも勇気を与えてくれた。

 

前回→お風呂

続き→こっち側とそっち側

目次→めぐりめぐるその日まで

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