夏の到来

携帯から鳴り響くアラーム音により、悠介は目を覚ました。

まだ意識のハッキリとしない目で、その画面を覗き見る。

十時四十五分

初期設定のままの無機質なホーム画面には、確かにそう記されていた。

見間違いかと思って再度確認すると、一文字だけそれは姿を変えた。

ここに来て、自分が寝坊したということをようやく自覚する。

「……ねみい」

発せられた言葉はあまりにも落ち着いていて、自分がしてしまったことへの罪悪感など、露ほども感じていなかった。

篭りきった空気を喚起するため、悠介は渋々ベットから抜け出した。

エアコンのスイッチをオフにし、勢いよく窓を開けると一瞬にして室内の空気は変わった。

ジメリとした重苦しい匂いや、蝉の鳴き声。

そして、身体を突き刺すような陽射しは、夏の到来を予感させた。

そこで、あることを悠介は思い出した。

「そういえば、今日から夏服だったっけ」

一人でにそう呟き、タンスの奥から見覚えのある高校の制服を引っ張り出す。

宝を発掘したかのように空気に触れさせると、ほんのりと木の匂いがした。

この匂いが悠介は好きだった。

都会の中心であるこの場所では人工的なものが多く、自然を感じられるものは不思議と落ち着くのだ。

制服に着替えて鏡の前に立ってみると、自分の不恰好さに思わず嫌気がさした。

寝癖だらけの髪に、シワがついたシャツ。

いくらなんでも、こんな姿で学校に行くのは憚られた。

気が進まないながらも、学校に行く準備をするため、悠介は一階へ降りた。

 

身支度を整え、準備を終える頃には既に十一時半を過ぎていた。

リビングに入ると、テーブルに置いてあるものが視界に飛び込んできた。

『悠介と圭吾へ』

そこには、走り気味の文字で書かれた置き手紙と一緒に、二千円が置いてあった。

これで夜ご飯を調達しろということだろう。

いつものことだったので、手紙に詳細が書かれていなくてもその用途はすぐに分かった。

母は、悠介が中学生になった辺りからパート勤務を始めた。

共働きをするほど家計が厳しいとは思わないが、両親は何か思うことがあるようだった。

そういったことから、昔から家には弟の圭吾と一緒にいることが多かった。

とはいえ、彼も中学生になってからは部活動で帰ってくるのが遅くなってしまったのだが。

結局、この家に誰かがいることはほとんど無かった。

目の前に置かれた二枚の紙切れは同じものだったが、悠介はなんとなく右を選んだ。

本当に、特に理由はなかった。

 

歩いて十五分もしないうちに、学校に到着した。

今は三時限目と四時限目の間の休憩時間らしく、校舎内は普段より活気付いていた。

手慣れた様子で靴を履き替え、自分の教室を目指して淡々と階段を上っていく。

足元を見続けていたため、今がどの辺りにいるのかが分からなくなった。

しかし、踊り場にある『3』の文字を見て、悠介は安心した。

その後、何事もなく教室までたどり着いた悠介は、教室の前に掛けられた木製の表札を見やった。

『二年四組』

自分が入るべき場所で間違いないと確信し、扉を静かに開いた。

その瞬間、室内の空気は静寂に満ち溢れた。

七十個ほどの瞳が、一斉に悠介に降り注いだ。

しかし、何事もなかったかのように、生徒たちは視線を戻す。

その行動は、まるで悠介が存在しないかのようだった。

これ以上ない居心地の悪さに嫌気がさした。

胸の奥に溜まったモヤモヤを全て吐き出すかのように、悠介は大きくため息をついた。

教室の一番奥の後ろの席。

そこが悠介の席だった。

しかし、そこには先客がいたようで、彼らはグループになって雑談を繰り広げていた。

「そこ俺の席なんだけど。邪魔だから早くどけ」

ワンテンポ遅れて、席の主がこちらに顔を向けた。

自然と見下ろす形になり、悠介はほんの少し優越感に浸っていた。

「はあ?遅刻してきたやつがなに偉そうにしてるんだよ。休み時間終わるまで待ってればいいだろ?」

その台詞に、悠介の体温は一気に上昇した。

「……お前、喧嘩売ってんのか?」

「あーあー、ほんと如月君は怖いな〜」

こちらを馬鹿にするかのような、煽った口調だった。

不穏な空気が広がり始めたのか、教室内はすっかりと静かになっていた。

「いい加減にしろよ。殴られたいのか?」

「ここどこだか分かってる?本当にそんなこと出来ると思ってるの?」

お前には絶対出来ない。

そう考えてるのはすぐに分かった。

恐らく、学校という場所を盾にしてるからだろう。

目の前の卑怯な男に苛つきのピークに達した悠介は、ついにその胸ぐらを掴み上げた。

周囲の人たちは相変わらず傍観し続けるだけで、彼らの仲裁をしようとするものなど誰もいなかった。

興味と不安が入り混じった目で、皆がこちらを見ている。

そんなことはお構い無しに殴りかかろうとすると、教室中に鋭い声が響き渡った。

「そこまで!」

突然のことに、悠介は思わず手を止めてしまった。

その声の正体は、この学校随一の体育教師だった。

鍛え上げられた肉体は威圧感を感じさせるものがあり、それだけでも生徒の抑止力となっていた。

更に、武道の心得とあるということで、騒ぎを止めるには十分すぎる人物だった。

「お前ら、これから何をしようとしてたんだ?」

冷静な物腰だが、声にはあからさまに怒気が含まれていた。

「別に何でもないですよ。こいつが俺の席に座ってて邪魔だったんで、どけって言っただけです」

悠介が指を指す方向に、教師の視線が動かされた。

「それは本当か?」

「この不良が遅刻してくるのが悪いんすよ」

「聞いたことに答えろ。如月の席に座ってたのは本当なのかと聞いてる」

その言葉に、先ほどまで悠介の席に座っていた男は観念したといった様子で白状した。

「本当です……」

「そうか」

それだけ言って、再び悠介に教師の視線が戻された。

「だとしても、そうやってすぐ暴力で解決しようとするのは感心しないな。お前にも問題があるんだぞ如月」

その言葉に、悠介は怒りを隠し切れなかった。

「俺が悪いっていうんですか?元はといえばこいつが座ってたのが悪いのに」

「そうやって責任押し付け合ってたらキリがない。俺から見ればお前ら二人とも悪い」

キッパリと言い切った教師は、続いて教室内の生徒にこう告げた。

「ただ突っ立って見ていたお前らにも責任があるんだぞ。もちろん、二人を止めろとは言わない。だが、教師を呼びに行くことくらい出来たはずだろう。何故そうしなかった?」

全生徒に投げかけられた質問に答えるものはいない。

下を向き続ける人、そわそわする人、ボソボソと言葉を発する人。

反応は様々だった。

「二年だからって気が緩んでるんじゃないのか?こんなことが続けば三年になってから後悔するぞ。そうならないように今からでも意識を変えろ。いいな」

今度は何人かの生徒が返事をした。

しかし、それはまとまりがなくバラバラに発せられたものだった。

少ないながらも返事があったことに満足したのか、教師は再びこちらに向いた。

「今回のことは親御さんにも報告させてもらうからな」

そう言って、教師は姿を消してしまった。

それと同時にチャイムが鳴り、教室内の空気は一気に慌ただしいものへと変化した。

悠介の席に座ってた生徒が、去り際にニヤニヤしながら耳打ちをしてきた。

「優秀な弟を持つと大変だな」

その言葉を聞いた瞬間、悠介の身体に電撃が走った。

怒りより先に、虚しさ、悔しさといった感情が波に乗って押し寄せてくる。

嫌な汗が吹き出し、気付けば悠介は両手を強く握りしめていた。

 

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続き→兄と弟

目次→めぐりめぐるその日まで

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