「どこに行ったんだ……!」
水族館からあれだけ走ったのだ。
お店に着いた時、綾乃はお世辞にも元気だとは言えなかった。
それを踏まえれば、そこまで遠くには行っていないはずだ。
しかし、そんな考えを嘲笑うかのように綾乃は一向に見つからない。
以前もこんなことがあった。
その時の記憶を頼りに携帯の画面を開こうとするも、悠介はすぐにそれが無意味な行為だと気付いた。
悠介は綾乃の写真を持っていなかったのだ。
仮に持っていたとしても、彼女の姿が見えるのは悠介だけだった。
仕方なく手当たり次第に探すも、やはり彼女はどこにもいない。
自宅に戻ったのかと考えたが、綾乃の性格的に自分がいないのに帰るとは思えなかった。
絶望的な状況に心が折れそうになった矢先、悠介はあることを思い出した。
「もしかして、あの場所なら……」
もしそこにいなければ、恐らく彼女は見つけられない。
期待と絶望感に苛まれながらも、止まることは許されない状況だった。
腹をくくり、悠介は再び走り始めた。
頭に思い描いた場所に辿り着くと、綾乃はポツリとベンチに座り込んでいた。
「……やっぱり、ここにいたんですね」
こちらの存在に気付いていなかったのか、声をかけると綾乃は驚いたように顔を上げた。
「どうして、分かったんですか……?」
こちらを見つめる綾乃の瞳は、真っ赤に染まっていた。
必死に目元を拭う仕草は、悠介の胸をきつく締め付ける。
「綾乃さんと初めて会ったのがここだったからですよ。あとは、気持ちが落ち着かない時って一人になれる場所に行きたいじゃないですか。他の人から見えないとはいえ堂々と人前に行くとは思えませんし。……最後は勘です。」
はぁ、と綾乃は大きく溜息をついた。
「流石ですね」
「……隣、座ってもいいですか?」
「どうぞ」
自分の左側に空いたスペースを、綾乃は両手で指差した。
「……ごめんなさい。俺、綾乃さんのことちゃんと考えられてなかった。会うも会わないは俺が決めることじゃないって、分かってたはずなのに。自分の気持ちを押し付けるみたいなことしちゃいました」
綾乃は静かに首を横に振る。
その拍子に、彼女の艶やかな髪が緩やかに波を打っていた。
髪は汗で濡れていて、少しだけ水滴が飛び散った。
「本当は嬉しかったんですよ。私を想ってのことだって分かりましたから。むしろ、店長さんには悪いことをしちゃいました」
「じゃあ、どうして……」
具体的に言葉にしなくても意味は伝わったようで、綾乃から発された声音は酷く自嘲的だった。
「……逃げたのは私自身に、ですよ」
意味が分からない。
しかし、重要なのはそこではなく、彼女のことを傷付けてしまったという事実なのだ。
何があっても、それだけは覆らない。
「俺、何か買ってきますよ。色々あって疲れてません?」
「確かに、それもそうですね」
「何がいいですか?」
「私は悠介くんと同じ物が良いです」
何が楽しいのか、綾乃はバタ足するように足を上下させている。
「じゃあ、ちょっと待っててください」
通い慣れたコンビニに入り、悠介は二つずつ商品をカゴに放り込む。
アイス、お茶、お菓子など、すぐに食べられるものばかりだ。
公園には誰もいないし、仲直りも含めて二人でちょっとしたパーティーでもしよう。
そしたらまた一緒に遊びに行くんだ。
「ありがとうございましたー」
活気の良い店員の声に後押しされ、悠介の歩調は知らず知らずの内に早くなっていた。
公園に戻った瞬間、悠介は目を疑った。
瞳に映る光景を信じられず、握られていた袋が力無く地面に横たわった。
「……そういうことだったんですね」
何に納得しているのか、綾乃は自身に起きた変化を冷静に受け止めていた。
彼女の身体はうっすらと透け始めていて、今にも背景に溶け込んでしまいそうになっている。
いずれこの日が来ることは、もうずっと前から覚悟していたはずだ。
だけど、あまりにも突然過ぎた。
想像するのと実際に目の前で起こるのとでは全く違う。
そんな当たり前のことを、改めて実感させられた。
「なんで、そんな……。こんないきなりって……!」
体裁など構わず、悠介は綾乃の抱きついていた。
「悠介くん、痛いですよ」
「なんでそんなに落ち着いてるんですか! 消えちゃうんですよ!?」
「こうなることは、最初から分かっていたことじゃないですか」
そうだ、分かっていた、分かっていたはずだ。
それなのに、どうして自分はこんなに動揺しているのだろう。
少し考えて理解する。
自分にとって、綾乃はとっくに日常になっていたのだ。
もちろん、彼女のことが好きだというのもある。
だけど、それとは違う感情もあった。
家族が増えて、姉ができたような感覚。
一緒にいることが当たり前になっていた。
綾乃といる時、自分は間違いなく三人姉弟の真ん中っ子だった。
そんな日々が愛おしかったのだ。
それが無くなってしまうことは怖い。
当然じゃないか。
「でも、だからってそんなあっさりと受け入れられませんよ……」
「勘違いしてはいけません。私はすでに亡くなっているんですよ」
今度は、いくらか厳しさを孕んだ声音だった。
まるで、獅子が子供を谷に突き落とすような言い方だ。
「もしかして、“あの人”に会っちゃったからですか? だとしたら、俺のせいだ……」
「それは、違いますよ。悠介くんは何も悪くありません」
「だけど、綾乃さんは成仏したくないって言ってたじゃないですか!」
「確かにそう言いました。でも、もういいんですよ。この間も話した通り、私のお願い事は叶えられましたから」
綾乃の腕が、悠介を抱き返すようにそっと結ばれた。
それと同時に、甘く、優しい、いつもの匂いが鼻腔を潜り抜けた。
まだ、まだ彼女はここにいる。
「私は、悠介くんに楽しい時間をたくさんいただきました。だから、もう満足です。君は、もう一人でも歩いていけます」
「そんなことーー」
「ありますよ。……自信がない悠介くんには、特別にこれをプレゼントします」
フサリ、と頭の上に何かが置かれる。
その正体が気になり顔を上げると、綾乃のトレードマークだった麦わら帽子はすっかりと姿を消していた。
「ネックレスのお返しです。私のことが恋しくなったらこの帽子を使ってください」
「ありがとう、ございます」
綾乃の身体が一際薄くなり始める。
残り時間はそう長くない。
それなのに、肝心な言葉は何一つとして出てこない。
「もう、時間みたいですね」
まるで自分に巻き込まれないようにするかのように、綾乃は悠介の身体をそっと引き離した。
こんな時まで他人の心配なんて、本当に彼女らしい。
「なんて顔してるんですか」
「えっ?」
「お通夜みたいな顔してますよ。……最後は、笑って送り出してください。じゃないと、こうしちゃいます」
「いたっ! ちょっと、痛いですってば!」
突如として、両頬を外に引っ張り上げられた。
力加減が明らかにおかしい。
綾乃は人目も憚らず声を出して笑っている。
微笑むことこそ多けれど、今までこんな笑い方をすることは一度たりともなかった。
いや、一度だけあったかもしれない。
確か、綾乃が過去の話をしてくれた時にこんなことがあった気がする。
「綾乃さんも人のこと言えないじゃないですか。涙、出てますよ」
「これは悠介くんの顔が面白いからですよ」
「本当ですか? 確かに綾乃さんは大人っぽくて頼りになるお姉さんでしたけど。だからって、こんな時まで無理しなくていいんですよ」
「無理なんて、してないですよ」
動揺しているのか、綾乃は自身の手を落ち着きなく触り続けている。
その行為が示す意味を、悠介はもう理解していた。
「嘘ですね。綾乃さんは無理したり強がってると手が落ち着かなくなるんですよ。消毒してもらった時もそうでしたし、店長に会いに行った時もそうでした。……そして、今も」
自身の癖に今まで気付いていなかったのか、綾乃は焦ったように手を背中に隠した。
「……やっぱり、君には敵いませんね」
園内に広がる砂の海に、ポツリと水玉が彩られる。
綾乃の瞳からは、堰を切ったように涙が溢れ出していた。
今日は本当に色々が表情を見れた。
しかし、延々と目元を拭う彼女の姿は、今まで見たどんな姿よりも息が苦しくなるものだった。
悠介は、自然に綾乃の頭へ手を伸ばしていた。
まるで、そうすることが決まっていたかのように。
「俺、綾乃さんに出会えて本当に良かったです。この先、これ以上幸せなことなんて無いんじゃないかって思います。それに、たくさんのことを学ばせてもらいました。……全部、綾乃さんのおかげです」
「それは言い過ぎですよ。悠介くんはまだまだ人生これからなんですから。もし早死にするようなことがあったら私が許しません」
「綾乃さんに会いに行くためにそうするのもいいかもしれないですね」
「言うようになりましたね」
本気とも冗談とも言えないような論争をする。
こんなふざけた会話も、これで最後。
それでも、きっとこうすることが正解なんだと悠介は悟った。
自分が逆の立場だとしたら、きっとその方が幸せだから。
だからこそ、全力でそれをしてあげたい。
いつも通りを、彼女が終わるその時まで。
「悠介くんの人生が、これからも充実したものでありますように。……いつか、また会いましょう。その時まで、私は待ってますから」
「……はい」
さようなら、とは言わなかった。
だって、綾乃は再び会えるって信じていたから。
それを言うのは、彼女の想いを踏み躙ることだと思うから。
「……そうだ。最後に一つだけ。悠介くんが何故その結論に至ったかは分かりませんでしたが、店長さんは“あの人”ではありませんよ」
衝撃のカミングアウトに、悠介は言葉を失った。
してやったり。
悪戯が成功した子供のような、そんな無邪気な顔をしていた。
その残像は少しずつ形を崩し、綾乃はついには悠介の瞳からも姿を消した。
その瞬間があまりにも呆気なくて、まるで最初から彼女は存在しないようだった。
もっと感情が抑え切れなくなると思っていた。
しかし、不思議と清々しい気持ちに胸を満たされていた。
「もう、帰ろう」
それに反応してくれる人は、もういない。
ふと、地面にひれ伏していた袋を確認すると、二人で食べるはずだったアイスはドロドロに溶けていた。
ーー店長さんは“あの人”ではありませんよ。
帰路についた悠介は、その言葉がグルグルと脳内でリピートされていた。
人違いだったから、綾乃は店長を避けた……?
つまり、綾乃が消えてしまったのは“あの人”に会ったからではなかったということになる。
事実、彼女もそれについては確信を持っていた。
だとしたら、綾乃が消えてしまった本当の理由は何なのだろうか。
疑問が疑問を呼び、もはやそれは止まることを知らない。
そこで、悠介はあることを思い出した。
「そうだ! 手紙!」
確か、綾乃は自分に何かあったらそれを“あの人”
に届けて欲しいと言っていた。
彼女の最後の願いを叶えられるのは自分しかいない。
それに、これは自分がやらなきゃいけないことなんだ。
そう思うと同時に、悠介は駆け出していた。
「あった!」
あの日、その正体を覗き見てしまった時と全く同じ状態で、それは机に置かれていた。
すでに二十二時を過ぎていたが、次の日まで待つなんて悠長なことは言ってられなかった。
帰ってきた勢いでそのまま部屋を飛び出そうとするも、悠介の足はすぐに立ち止まる。
「……これは、“誰に”届ければいいんだ……」
無地の封筒には相手の名前は愚か、住所や郵便番号も何も記されておらず、ただただ真っ白なだけだった。
動きたいのに動けない。
思い通りに事が運ばないことに、焦燥だけが散り積もる。
そうだ。
内容を見れば何か分かるかもしれない。
分からなかったとしても、それを頼りに情報を収集していけば……。
ーー中身は絶対に見ちゃいけませんからね。
煩悩を遮るように、綾乃の言葉が蘇った。
「ごめん、綾乃さん。でも、もうこれしかないっ……!」
絞り出した謝罪は、消えてしまった彼女に届いているのだろうか。
それとも、目に映らないだけで、本当は隣で全てを見ているのだろうか。
この時、悠介は初めて綾乃の言いつけを破った。
自分を信じてくれた彼女を裏切ることに罪悪感を覚えつつも、ゆっくりと封を開いていく。
手紙は四枚に分けられており、どれもキッチリと三つ折りにされていた。
こんなところにも綾乃の性格は垣間見れた。
昂ぶった気持ちを無理矢理沈めるように、ゆっくりと深呼吸をする。
手紙を傷ませないように、初めの一枚をゆっくりとめくった。
「……は?」
悠介の視界に飛び込んできた人物の名前は、あまりにも予想外なものだった。
前回→暴走
続き→手紙
目次→めぐりめぐるその日まで
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