彼女の内側

「ごめんなさい、遅くなりました」

「あっ」

部屋に戻ると、綾乃は机の前に佇んでいた。

背中を向けながら顔だけをこちらに向けて、なぜか申し訳なさそうな目をしている。

そんな彼女の姿に疑問を感じ、ゆっくりと視線を落とすと、そこには糸と綿で作られた球体が握られていた。

「ごめんなさい。見るつもりはなかったんですけど」

「……いえ、いいですよ。“それ”、元の場所にしまっておいてくれますか?」

何かを感じ取ったのか、綾乃はそっと机の引き出しを閉じた。

「少し騒がしかった気がしますけど、何かあったんですか?」

「またちょっと喧嘩になっただけですよ。そんなことより、これ、持ってきましたよ」

そう言って、コンコンとアルバムを指で弾く。

「ありがとうございます」

「持ってきといてあれですけど、本当に見るんですか? 何も面白いことないですよ?」

「面白いかどうかは、私が決めます」

そう言って、綾乃は軽々と悠介の手に収まっているアルバムを取り上げた。

そして、お風呂の時に聞いた鼻歌を陽気に歌いがら、彼女はそれを床に広げた。

隣に座って、覗き込むようにしてそれを見る。

一枚、また一枚とページがめくられる度に、自分の年が若返っていく。

「わー」だの「おー」などと言いながら、綾乃は視線を忙しなく動かし続けた。

その様子を見るに、どこか目的のページがあるように感じた。

まるでそれを見つけるためだけに、そこかしこに目を光らせている。

そんな風に見えた。

突如として、ページを捲る手が止まる。

どうやら、ここが彼女のゴール地点だったようだ。

……そこは、自分がまだ六歳の時の写真だった。

ふと綾乃を見遣ると、彼女はなぜかとても嬉しそうに惚けている。

こんな表情、見たことない。

今まで見たことのないような感情が満ち溢れた顔を見て、悠介は動揺した。

何故、彼女がそんな反応をするのか。

自分はそんな風に見られるような人じゃないのに。

「綾乃さん、これが見たかったんですか?」

「えっ?」

「いや、何かとても幸せそうなので 」

「バレちゃいました?」

「……綾乃さんって、まさかショタコンですか?」

「ショタコンって、なんですか?」

コトリと、綾乃は首を傾げる。

早く教えてよ、と言わんばかりに目をパチクリさせている様子からは、本当にその意味を知らないことが窺えた。

「簡単に言うと、少年や小さな男の子のことが好きってことですよ。その、愛情的な意味で」

「なるほど。でも、それは違いますね」

「そうなんですか? じゃあ、どうしてこのページが見たかったんですか?」

そう尋ねると、綾乃は顎に手を添えながらしばらく「んー」と唸り続けた。

そして、結局はいつかの時と同じような台詞を放った。

「秘密です」

公園で話した時もそう言っていた。

しかし、彼女のことを信じ、悠介はその意味を深く追求しないようにしている。

事実、綾乃は悠介に対して酷い仕打ちをするようなことは一度たりともなかった。

切り取られた世界の自分からは、今の自分がどう見えているのだろうか。

この頃の自分は、今の状況になることを想像できたのだろうか。

ふと、そんな考えに頭を支配された。

「悠介くん?」

「えっ? あ、はい」

「ぼーっとしてましたけど、大丈夫ですか?」

いつの間にか、意識が外へと抜け出していたようだった。

そんな様子を心配してくれていたのか、綾乃は下から覗き込むようにして自分の顔を見つめていた。

「……いえ、やっぱりこの頃とは色々変わったなって思いまして。両親も、圭吾も、そして俺自身も」

「悠介くんは、今が嫌なんですか?」

「そう、なのかもしれません。正直、自分でもよく分からないです」

何となく居心地の悪さを感じ、つい愛想笑いを浮かべてしまう。

「悠介くんが前に進もうと思えば、いつでもそれは叶えられますよ」

「綾乃さんは強いんですね。なんていうか、羨ましいです」

悠介にとって、綾乃は眩しすぎる存在だった。

圭吾に抱くそれとは違う要素が、彼女にはある。

二人とも、自分にはない魅力を持っている。

綾乃は強く、そして優しい。

少なからず、悠介から見える彼女のイメージはそうだった。

そんな眼差しを送り続けていると、何かを思い付いたように綾乃は表情を綻ばせた。

「……悩める少年に、特別に私のお話を聞かせてあげますね」

彼女がこうして自分の話をしようとするのは初めてのことだった。

思い立ったが吉日だったのか、決心した彼女は脇目も振らずに語り始めた。

「幼い頃、私は誘拐されかけました。その時はどうして自分たちがそんな目に合わないといけないのか分かりませんでした」

綾乃の第一声は、悠介の想像を絶するものだった。

話の内容と彼女の真剣さに気圧され、自分の背筋が伸びるのを感じた。

「でも、両親はその理由を知っていました。だから、二人は必死に私を逃がそうとしてくれたんです。そして、その時に両親と離れ離れになってしまいました。公園で会った時に『家族がいない』と言ったのはそういう意味です」

「……まさか、それって」

「いえ、本当に言葉の通りですよ。でも、その後のことは分かりません。悠介くんが想像しているようなこともあり得るかもしれません……」

綾乃の顔は、今までに見たことないような色をしている。

今日だけで二度目だった。

彼女がこんな風に落ち込む姿を見て、自分が深く考えずに質問したことを激しく後悔した。

気を取り直したのか、彼女は再び落ち着いた声音で物語を紡ぎ始めた。

「彼らの目的は、私を捕獲して売りさばくことでした。その候補として私は選ばれてしまったみたいです」

 

売春

 

すぐに思い浮かんだのは、およそ彼女には似つかわしくない単語だった。

こんな平和な時代にそんなことがあるなんて考えられない。

そう思ったが、綾乃に偽りの様子はない。

信じたくないのに、彼女が纏う雰囲気はそうすることを許してはくれなかった。

「仮に売れ残った場合は用済みとなり、殺されてしまうらしかったです。それを知っていたから、両親は私を必死に逃がしてくれたんですね。……実は、そのことは最近になって知りました」

そう言いながら微笑む姿に、何も言えなくなる。

今だけは、綾乃のこの笑顔は本物ではないのではないか。

それほどまでに、彼女の表情は痛々しい。

「両親のおかげで何とか生き延びることができた私は、しばらくの間路頭に迷ってしまいました。頼れる相手は誰もいなくて、とにかく一人ぼっちでした」

「……その、おばあさんとかおじいさんはいなかったんですか?」

そう聞いても、彼女は首を横に振るだけだった。

「まともな食事を取ることもできず、その日を生き延びることに必死だった私は、日に日に弱り果てていきました」

こんな悲しいことが続いた上に、綾乃は命を落としてしまったのだろうか。

そうだとすれば、あまりにも残酷だ。

ぶつけようのない怒りに身が震える。

それを抑え込むようにして、身体を強く抱きしめた。

「人間は恐ろしい生き物だって思いました。彼らが私たちの前に現れなければ、こんな辛い思いをすることはなかった。両親とも離れることなく、一緒に生きられた。……私は、彼らを恨みました」

勘違いをしていた。

綾乃はずっと幸せな環境で生きてきたんだと思っていた。

そうじゃなければ、こんな性格になるなんてあり得ないって、そう信じたかった。

でも、彼女は自分なんかよりもずっと辛い生活を強いられていた。

平然を装い、いつも通り落ち着いているように見える。

しかし、悠介は彼女の瞳がゆらゆらと揺らめいてるのを見逃せなかった。

それを隠そうともせず、彼女は語り続ける。

「……でも、転機があったんです」

「えっ?」

予想しなかった展開に、悠介は虚を衝かれた。

「そんなボロボロになっていた私を、救ってくれた人がいたんです。最初はどうなることかと思いました。何せ私は人間不信でしたから。でも、そんなことは関係ないと、その人は私のことを必死に看病してくれました」

良かった。

悲劇の連続だったが、そんな状態でも何とか幸せに漕ぎ着けた。

自分の話でもないのに、悠介は心は温かい気持ちに満たされていた。

「でも、そんな幸せな日々はすぐに終わりを告げました。私はすでに弱り切っていたので、長生きすることができなかったんですね。結局、その人とは一年間くらいしか一緒にいられませんでした。……それでも、私にとっては大切な人なんです」

悲しい話のはずなのに嬉々として語る姿は、キラキラと輝いている。

いつも以上に言葉に感情が乗っていて、綾乃がどれだけ影響を受けていたのかが容易に想像出来た。

ここまで活き活きしていたことは未だかつてなく、こんな風に彼女を変えてしまう人物はさぞ素晴らしい人物なのだろう。

「その人のおかげで、私は前に進めたんです。人間は怖い生き物という認識を、その人は変えてくれました。同じ生き物でも、様々な考えを持っている。優しい人がいれば怖い人もいて、攻撃的な人がいれば守ってくれる人もいる。思い込みで相手を判断するのではなく、しっかりと個別に向き合うことが大切なんだと実感しました。……そして、今の私が生まれたんです」

その言葉を最後に、彼女の物語は静かに幕を閉じた。

 

前回→アルバム

続き→あの人

目次→めぐりめぐるその日まで

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