アヤちゃん

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「雨降ってきたよ!」

「今日曇りの予報だったのにー」

「どうしよー。もう帰る?」

突然の雨に対する感想は三者三様で、各々の意見が広場に飛び交う。

悠介はそれを他人事のように眺めていた。

「悠介くんはどうする?」

「おれ? うーん。なんか強くなってきそうだし、帰ろうかな」

「そっかー……」

女の子はしょんぼりと俯いてしまった。

雨に打たれ続けているせいか、余計に重々しい雰囲気が漂う。

「また今度遊べば良いじゃん! 風邪ひいちゃったら大変だし、今日はみんな帰ろう!」

沈み切った空気を元に戻そうと悠介が声をかけると、次々と顔が上がった。

「じゃあ、またね〜。みんな気を付けろよー!」

遠くから呼びかけると、それに応えるようにみんなは手を振り返してくれた。

何か話しているようで口をパクパクと上下させていたが、こちらには何も届かない。

仕方なく手を振り返すと、彼らは満足したように背中を向けた。

 

「傘持って来ればよかった」

自宅に全力疾走しながら、悠介は一人呟く。

昨日の予報で、天気がぐずつくというのは知っていた。

しかし、当日になってそのことを忘れてしまっていたのだ。

思い出したのは友達と合流した後で、その頃にはすでにどうでも良くなっていた。

「……ぅぅん……」

まるでこちらの存在を感知したように、どこからか声が上がった。

その正体を探ろうと身体を一回転させても、その姿はどこにも見当たらない。

「気のせい、だったのかな……?」

気を取り直して再び走り出そうとすると、今度は悲痛な唸りが鳴った。

何かがいると確信を持ち、悠介は注意深く辺りを観察する。

すると、ベージュ色のチワワがベンチの下でうずくまっているのを見つけた。

もしかしたら、雨宿りしていたのかもしれない。

身体を大きく震わせながら呼吸をし、足は時々痙攣を起こしてしまっている。

「なんでこんなところに? 迷子になっちゃったのかな。でも、首輪付いてないし……」

野良犬やら猫やら、外で遊ぶことが多い悠介はそういったものを見ることは少なくなかった。

しかし、チワワがこうして一人ぼっちなのはどう考えてもおかしい。

基本的に誰かに飼われているかペットショップにいるか、そんな感じだったはずだ。

捨てられちゃったのかもしれない。

そう思うや否や、悠介はチワワを腕に包んでいた。

 

「お帰りなさ……って、その子はどうしたの?」

怪訝な表情を浮かべ、玄関で迎えてくれた母は抱えられた異物を指差した。

「これは、その……。倒れてて。拾ってきちゃった」

「どうするつもりなの?」

母は、無感情な声を淡々と悠介に送りつけた。

きっと、それはこちらの意思を確認するためのものだと、悠介は直感した。

「この子の親が見つかるまで飼いたい」

「悠介がちゃんとお世話できるなら良いわよ。……でも、それができないなら許可できないわ。それに、どうやって親を探すつもりなの?」

覚悟を問うように、母は念を押す。

「ちゃんとするよ! だって、こんなに弱ってて可哀想じゃん! それは友達とかに聞いてみるから平気だし!」

大きなため息をつきながら、母は呆れた口調で言った。

「分かったわよ。好きにしなさい。だけど、私は圭吾を見てなくちゃいけないから、面倒見てあげられないからね」

言いたいことを全て吐き出して満足したのか、母はさっさと部屋へ戻ってしまった。

バタン、と音が鳴り、悠介はずぶ濡れのまま一人立ち尽くす。

ブルブルと、チワワは震え続けている。

「このままじゃ寒いもんな。シャワー浴びさせよう。汚れも取ってあげる」

風呂場に移動し、ついでに自分も身体を流してしまおうと、悠介は自身の肩に重くのしかかっている服を脱ぎ去った。

「こっちおいでー」

これから何をされるのか分からないのだろう。

チワワは黙って洗面所からこちらを凝視していた。

どうやら、怯えているようだった。

家族と離れ、突然見知らぬ場所に連れてこられてしまったのだから無理もない。

まずは警戒心を解かなくちゃと、悠介はチワワをそっと抱き上げた。

「怖がらなくて大丈夫だよ。何もしないから」

裸のまま犬を抱っこする姿が鏡に映っており、なんだか妙に思えた。

鏡を見続けていると、そちらを見たチワワと目が合った。

虚像の方ではなく本体を見ようと顔を下げると、再び視線がぶつかる。

もしや、意思が通じてるのだろうか。

何かを求めるような瞳に応えようと微笑むと、チワワは「ワン……」と小さく声を漏らした。

こうして密着していると、段々と体温が高まってくる。

チワワの震えも、すっかりと止まっていたようだった。

 

「んー……。これで大丈夫なのかなぁ……」

ボソリと呟いた声は、自室にやたらと反響した。

チワワは悠介の施しにご満悦なのか、床に腹をつけて伸びていた。

その左足には、申し訳程度に包帯が巻かれている。

シャワーを浴びたことで本来の色が姿を現し、異変に気付いたのだ。

どうやら、足を痛めているようだった。

そのことを母に報告したところ、応急処置の仕方を教えてくれたのだ。

外で遊ぶことが日常の悠介は怪我が多く、母によく怒られていた。

「ちゃんと周りを見なさい」と何度言われたことだろうか。

そんな日々を繰り返す内に、いつの日か救急箱は悠介の部屋が定位置になっていた。

「……この子は、どっちなんだろう?」

浮かんだ疑問は性別についてだった。

顔から尻尾までじっくり観察するも、一向に判別することはできない。

あいにく、悠介はそれを見分ける術を知らなかった。

興味が抑えられなくなった悠介は、チワワの背中にそっと手を伸ばした。

首の根元あたりから背中にかけてゆっくりと撫でると、フサフサとした毛が至る所に突き刺さる。

刺激をしないように更に腕を沈み込ませると、掌が柔らかな肉に満たされた。

決して健康的とは言えない身体ではあったが、その弾力を身に受け、悠介は確信を持つ。

「女の子だ!」

興奮していたのか、自分でも驚くくらいの声量だった。

「……どうしたの?」

「けいごじゃん!」

様子を盗み見るように、圭吾が扉から顔だけ覗かせていた。

その音にチワワは立ち上がったが、彼に敵意はないと判断したのか、結局また寝っ転がってしまった。

「……その子、なに?」

「倒れてたから拾ったんだ」

「大丈夫なの……?」

「母さんには話してあるよ」

そうじゃなくて、と言わんばかりに圭吾は表情を曇らせた。

「……勝手に連れてきちゃったら、まずくない?」

「そうかもしれないけど。放っておくなんて出来ないだろ? この子、さっきまで震えてたんだよ?」

話題の中心である同居人は、我関せずといった様子でスヤスヤと眠っている。

はやっ! と、心の中で突っ込みを入れた。

「でも……」

納得出来ないのか、圭吾は落ち着きなく視線を彷徨わせていた。

煮え切らない態度に苛立ちが募り、つい語気が荒くなる。

「じゃあ、けいごはどうするんだよ?」

「そんなの分からないよ……。でも、犬なんて飼ったことないし、僕、不安だよ」

「ちゃんとおれが責任持って面倒見るから大丈夫だって!」

悠介は自身の胸を自信満々に叩いて見せた。

その姿を、数年後の自分が見たらどう思うだろうか。

何も分かってない子供のくせに勝手なことするなって、現実を見ろって、そう言うのだろうか。

きっと、圭吾は予感していたのだ。

この後の悲劇を。

 

それから一週間ほど経ち、彼女と過ごすことも徐々に慣れていった。

父に話した時も母と似たような反応をされたが、それ以上何かを言及されることはなかった。

相変わらずチワワを知ってる人は現れず、彼女は一体どこからやって来たのかと、悠介は頭を抱えていた。

「そんなに好きなんだねー、“それ”」

悠介は、目の前で戯れているチワワに話しかけた。

しかし、こちらの声は届いておらず、彼女はハムスターのようにチマチマとおもちゃを咥えていた。

「こういう模様のことなんて言うんだっけ? 確かテレビで……」

頭の奥底に潜む記憶を呼び起こすように瞳を閉じる。

すると、意外にもそれはすぐに思い出せた。

「そうだ綾だ! 母さんが見てた番組でそう言ってた!」

「ワンッ!」

「えっ?」

突然の出来事に、悠介は戸惑った。

聞き慣れない声が、悠介の言葉に呼応するように響き渡ったのだ。

声の主を見ると、千切れてしまうのではないかと思うほど勢いよく尻尾を振っていた。

瞳孔は開き、舌がダラリと垂れ下がっている。

こんなに活力に満ち溢れた彼女を見るのは初めてだった。

「えっと……あや?」

「ワンッ! ワンッ!!」

ある単語に反応しているのは明白だ。

「そっか。“あや”が好きなんだね」

今度は確信を持って言葉を紡ぐと、彼女は勢い良くこちらに飛びついて来た。

その流れで、嬉しさを爆発させたようにペロペロと顔を舐め回す。

「分かった。分かったってば〜!」

幸いなことに身体は小さかったため、押し倒されるようなことにはならなかった。

しかし、未だかつてない狂乱ぶりに悠介は心底驚いていた。

「そういえば、名前はなんて言うの?」

前足に手をくぐらせて抱っこすると、彼女はすっかりと静かになった。

宙に浮いてもなお、その尻尾は何かを追い求めている。

当然、彼女に聞いても答えは返ってこない。

「……じゃあ、“アヤちゃん”。これから、おれはそう呼ぶね」

そのまま胸に抱き寄せると、トクン、トクン、とアヤの心音が皮膚を通して伝播した。

 

それから半年が経っても、アヤの親が見つかることは無かった。

そもそも、彼女が飼い犬なのか、それとも野良犬なのか、悠介は分からなかった。

地元の人たちに話を聞いたり、貼り紙なんかもしてみたが、一向に名乗り出る者はいなかった。

その結果から、少なくとも彼女は誰かに飼われていたわけではないという判断に至った。

首輪も付いていなかったのだ、そう考えるのが妥当だった。

仮に飼われていたんだとしても、あんな状態で放置していたのだ。

きっと、捨てたに違いない。

そんな人に返してなんかやるもんか。

元気そうに振る舞うものの、アヤはかなり身体が弱っている。

どちらにせよ、このまま自然に戻すのはあまりにも酷な話だ。

この頃から、悠介はアヤを自宅で飼うことを決意していた。

「アヤちゃんー。ご飯食べないとダメだよー……」

アヤはグッタリとベッドに横たわっている。

晴れの日だろうと雨の日だろうと、彼女は一日の大半をこう過ごす。

食事を与えようにもほとんど食べてくれず、悠介は焦燥感に駆られていた。

チワワは好き嫌いが激しいという話を聞いたことがある。

目の前の現状は果たしてそれによるものなのだろうか。

それとも……。

「元気になったら、一緒に外に遊びに行こう? だから、それまではお家で遊んであげる」

顔の前におもちゃを置くと、アヤはそれを前足でガッシリと掴み、鼻を押し付けた。

アヤはこのおもちゃをやたらと気に入っていた。

これといった特徴がほとんどない、良く言えば大人っぽい、悪く言えば地味な代物だ。

そんなものに、何故ここまで興味を示すのか。

それはきっと、彼女が人間と同じく色を見分けることができるからだと、悠介は勝手に思っていた。

犬でも、芸術やら何やらについて思うことがあるのかもしれない。

一つのベッドに二つの身体がひしめき合うというのは、なんとも幸せだった。

悠介はまだまだベッドのサイズに身長が追いついていないのだ。

年齢を重ねても使えるようにという考慮の結果そうなったようだが、どうにも落ち着かない。

それどころか、広すぎるベッドは時に寂しい気持ちを抱かせる。

その上、部屋を暗くすると、世界中でたった一人きりになってしまったのではないかと錯覚してしまう時すらあるのだ

そんな時に、温もりを感じられる存在が隣にいるだけでどれだけ頼もしいか、この半年で悠介は思い知った。

ふと、アヤを見ると、彼女はおもちゃを枕にしながらお腹を出して眠っていた。

まるで人間みたいだなと思いながら、悠介はそっと布団を被せた。

 

「アヤちゃん、また後でね」

返事の代わりなのか、アヤは顎が外れるのではないかと思うほどの大きな欠伸をくれた。

きっと、このまま眠るのだろう。

部屋を出て行こうとすると、室内の様子に何か違和感を感じた。

少しの間考えるも、答えはまるっきり出てこない。

仕方なく諦め、悠介は彼女一匹を取り残し玄関へと向かった。

「行ってきまーす」

「ちゃんと暗くなるまでに帰ってくるのよー!」

「はいはい!」

母の言葉を受け流しながら、お気に入りのシューズを足にはめ込んでいく。

成長期で靴を頻繁に変えていたにも関わらず、すでに踵はポッコリとへこんでいた。

目的地は行きつけの公園だ。

通い慣れた道を走り抜け、悠介は風を切る。

道中で、見覚えのある貼り紙が目に入った。

それは、アヤの親を探すために自分が書いたものだった。

今となってはもう必無いものだ。

帰りに剥がせばいいか。

 

「遅いよー!」

「ごめんごめん。母さんがうるさくてさ〜」

「じゃあ、最後に来た悠介くんが鬼ねー」

「えー、悠介くん足早いから嫌だなー」

思い思いの言葉を発すると、木々が微笑むようにカサカサと音を立てる。

それに釣られて顔を上げると、雲一つない青空が広がっていた。

「じゃあ、十秒数えるから逃げていいよ」

「みんな、あっちだ!」

友達の一人が発破をかけると、自分を中心に彼らは散り散りになった。

「……さてと、もういいかな〜」

悠介が駆け出したのは、十数える一歩手前のことだった。

楽しい時間は流れるのが早く、辺りはオレンジに包まれていた。

あれだけ何もなかったはずの空はすっぽりと雲に覆われてしまっていて、夕焼けと溶け合う姿はまるで戦争の最中のようで不気味だった。

「そろそろ帰る?」

「もうちょっと遊ぼうよー」

「私はお腹空いたから帰ろうかな。『暗くなる前に帰ってきなさい』ってママに言われてるし」

「えー、つまんないのー」

 

ーーお腹空いたから。

 

何故か、その台詞が引っかかった。

大事なことを忘れている気がする。

なんだっただろうか。

徐々に、その輪郭が鮮明になっていく。

やがて、それはハッキリと蘇った。

「……ご飯、あげてなかった……」

今にも消え入りそうな声で呟くと、どうしたの、と
友達は尋ねてきた。

「ごめん! おれ、もう帰るから!」

周囲の言葉をぶった切り、悠介は急いで自宅へと戻る。

玄関に飛び込むと、家族が何事かとこちらを見た。

しかし、そんなことに構ってなんかいられない。

心臓の音がうるさい。

もはや、それ以外の音は何も聞こえなかった。

階段を駆け上がり、部屋の扉を思いっ切り開くと、そこにはいつも通りのアヤがいた。

ただ、一つだけ違うことがあった。

「アヤちゃん。なんでそんなところで寝てーー」

床にうな垂れて眠るアヤに触れた瞬間、悠介は今までに感じたことない恐怖に襲われた。

思考が追いつかなくとも、身体が警告を出していることだけは分かる。

「なんで、こんな冷たいの……? ねぇ、なんで……?」

かろうじて絞り出した声は、あまりにも脆い。

誰に届くこともなく、その響きは呆気なく空気に溶け込んだ。

あまりにも異常な事態に、悠介は焦っていた。

「……起きて、起きてよ! 起きてってば!!」

訳が分からないまま、アヤを激しく揺する。

彼女は身体が弱いのだ。

そんなことをしたらまずいことは誰よりも分かってる。

そのはずなのに、感情はそれを許してくれなかった。

騒ぎを嗅ぎつけ、母が部屋に乗り込んできた。

状況をすぐに察したようで、母はアヤに触れ、事実を無慈悲に告げる。

「……この子は、もう死んでるわよ……」

「そんな……。まさか、おれがご飯あげ忘れちゃったから……?」

部屋の隅っこに転がるお椀を見ても、それは最後に見た通り空っぽのままだった。

今まで一度たりともそんなことはなかったはずなのに、どうして今日に限って忘れてしまったのだろう。

きっと、久し振りに外で遊べるということで浮かれてしまっていたのだ。

責任取ると言った結果がこれだ。

取り返しのつかないことをした。

ようやく思考が追い付いてきた頃には、涙がとめどなく流れ続けていた。

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前回→手紙

続き→めぐりめぐるその日

目次→めぐりめぐるその日まで

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