『空の青さを知る人よ』感想&考察 道に迷った時、帰るべき場所がある。地元への愛を描いたヒューマンドラマ!

アニメ感想

公開から十日ほど経ち、『空の青さを知る人よ』を見てきました。

今回はその感想や、タイトルの意味はどういうものだったのかという考察を書き連ねていこうと思います。

 

※この記事では本編のネタバレを含んでいますのでご注意ください!

 

感想

 

姉妹愛、恋愛、夢、現実、と様々な要素が詰まった作品でした。

この作品のターゲットは『三十代』と言われていましたが、その理由がよく分かりました。

夢を追いかけ続けたり、目指していたはずの場所や理想の自分とのギャップが生まれてくる時期……というのがこの世代をターゲットにしていると言われる所以だと思いました。

自分の道を貫き続けるのか、それとも世間体を重視して「普通」に染まるのか、ということが終始描かれていたように感じました。

例えば、結婚の話や、慎之介が「演歌のバックギターをやりたいわけじゃない」と言ってたところとかですね。

こういった「現実」「夢」の葛藤がよく描かれていました。

更に、この物語にはもう一つの葛藤があります。

それが恋の行方ですね。

 

あおい→しんの⇄あかね⇄慎之介

 

という構図になります。

物語の都合上、あおいとしんのにスポットライトが当たることが多かったですが、この作品の中心人物は間違いなく『あかね』だったと思います。

あかねが周囲が振り回している、それとも周りが勝手に振り回されていたと言うのが適切でしょうか?

あおいはあかねのためを思って秩父を出ようとしますが、あかねにはその本心は隠したままです。

ただ、あおい自身が秩父を抜け出したいという気持ちがあったのも事実です。

後の考察でも詳しく書いていきますが、『空の青さを知る』という言葉の意味からもそれは明らかなんじゃないかと思います。

バンドをやりたいのもありますが、あかねを解放してあげたいという気持ちが一番です。

バンドというのはそれの口実の意味もあったのではないかと思います。

夢を追いかけるという大義名分があれば、あかねは自分を応援して送り出してくれる。

そうすれば、あかねがあおいを追い出したという責任感に駆られることはない。

自分から離れさえすれば全てが丸く収まる。

そういう風に考えていたのではないでしょうか?

あおいは理想と現実の狭間にいるというイメージでした。

純粋にバンドをやりたいという『夢』と、あかねを解放するという目的の『現実』

どちらも偽りのない本心だったと思います。

 

続いて、しんのこと慎之介です。

しんのはバンドでビッグになるという『夢』を掲げて秩父を抜け出しました。

あおいからしたら自分の先を歩んでいる先輩という訳ですね。

あかねに一緒に来て欲しいと思いつつも、最終的には『夢』を選びました。

 

最後にあかねです。

あかねが高校三年生だった時に何をやりたいかというのは具体的に描写されていませんでしたが、そこはあまり重要ではなかったのかもしれません。

何故なら、あかねには『夢』『現実』を選ぶ選択権が初めから無かったからです。

両親が亡くなってしまい、あかね自身があおいを育てなくちゃいけない環境になってしまいました。

だからこそ、あかねはしんのの誘いを断りました。

もし両親が亡くなっていなければ喜んで一緒に行ったのかもしれませんが、当時のあかねが何をしたかったのか分からないので、こればかりはなんとも言えません。

ただ、結果的にあかねは目の前の『現実』を選ばざるを得なくなってしまいました。

 

このように、三者三様で違う道を選んでいます。

そして、『現実』を選ばざるを得なかったあかねを中心にして物語が展開していきます。

あおいはあかねが自分を育ててくれたことに感謝しつつも、どこかで申し訳なさを覚えています。

しんのはあかねがついてきてくれなかったことで一人になってしまいました。

そして、『慎之介』になってしまうんですね。

個人的に良いなと思ったのは、この三人の誰もが相手を責めなかったことですね。

あおいは一度だけあかねに「嫌いだ!」と言ってしまいますが、それも本心ではありません。

しんのだって、無茶を言ってあかねを連れてくことだって可能だったはずです。

それでも、事情を理解してあかねの選択を尊重しました。

それに対して非難することはありませんでしたし、それどころか自分があかねを迎えに行くとまで言っていました。

しんのはどこまでもあかね一筋でした。

何よりすごいのはあかねです。

あんな状況になっても、彼女はそれに真正面から向き合いました。

弱音を吐くことも、まだ小さかったあおいに当たることもなく、周囲から気遣われてることも気にしていませんでした。

高校を卒業してようやく自分の道に進もうというところで、彼女はそれが閉ざされてしまいました。

にも関わらず、あそこまであおいを育てのは本当に素晴らしいと思います。

あかねが自暴自棄にならなかった理由は、あおいを育てることが次第に自分のやりたいこと、『夢』になっていたからだと思います。

最初は仕方なくという部分もあったかもしれません。

それでも、若くして母となりあおいの世話をしていく内に姉とは別の愛情が湧くようになったんだと思います。

もちろん、しんのに向けるそれとは意味が違います。

姉妹愛と親子愛が混ざったような、そんな感じではないでしょうか?

あかねにとってあおいは、妹であり娘でした。

あかね自身がやりたいことだったからこそ、誰に何を言われても気にしなかったですし、あおいのことを迎えに行ったりもしてました。

だからこそ、あおいが想いをぶつけてきた時には形容し難いものが込み上げてきたんじゃないかと思います。

確かにやりたいことではあったかもしれませんが、それと同時にあかねには少なくとももう一つやりたいことがありました。

それが、しんのと東京に行くことですね。

もちろん、それ以外にも何かあったのかもしれません。

全てを考えた結果、あかねは『やりたいこと』よりも『やるべきこと』を選びました。

本編で、「誰かに振り回されてるわけじゃない。今の生き方も自分で選んだ」とあかねは言っていました。

これは様々な意味があります。

まず、しんのとあおいに対することですね。

周囲からはしんのとの恋を引きずってるように見えてしまいますし、あおいに縛られてるように見えています。

基本的に優しく、受け身の立ち回りが多いあかねですが、この時ばかりは目つきが厳しものになっていました。

哀れみの目で見られることに対して、自分はそうじゃないということをしっかりと伝えたかったのでしょう。

ただ、私が思うに、ここにはもう一つの意味があったのではないかと思います。

それが、『仮定の自分に対する憤り』です。

自分で選んだとはいえ、そもそも両親が亡くなっていなければあかねがあおいの母になることはなかったはずです。

環境的な要因でそうなってしまったというのもまた事実です。

では、仮にそうじゃなかったらあかねはどうだったのかということになります。

これが、あかねが当時何をしたかったのかを具体的にされてなかった理由なのかもしれません。

恐らく、特別やりたいことはなかったんだと思います。

そんな中両親が亡くなり、あかねはあおいの母になってしまいました。

 

“結果的にやりたいことにはなったけど、仮にそうじゃなかったら自分は何をしていたのだろうか?

その時、自分は今のように生きられているのだろうか?”

 

という、自分に対する憤りを感じていたのではないかと思います。

あおいの母じゃなかったら自分には何も無い。

そんなことを言われてるような気がしたこともあり、あの目つきになったのかもしれませんね。

いずれにしても、あかねが他人と自分の間に明確な線引きをした瞬間でした。

 

長年の間、あおいとあかねの間にはわだかまりがありました。

実際はあおいが勝手にそう思っていただけかもしれません。

そんなあおいがあかねの真実を知って、あかねのために動こうと決心を改めたところは心を打たれました。

あおいもしんのとの恋に振り回されたり、慎之介とのギャップに苦しんだりしていました。

それでも、終始あかねのためという目的があおいにはありました。

不器用で口が悪いけど、誰よりもあかねのことを想っていました。

あおいのしんのに対する感情をあかねは知りません。

つまり、あおいがあかねから見えないところで一人で悶々とし、一人で身を引いたということになります。

誰よりも相談したかった人がまさかの恋敵。

でも、その人のことも大好きというジレンマ。

それでも、あおいが自分自身の気持ちに決着をつけて前に進めて良かったと思います。

そしてあのエンディングですよ。

あかねと慎之介の結婚を本心から喜んでいました。

あかねに気を使わせないために、あおいは自分の気持ちを一生胸の内に留めておくのでしょう。

あおいは本当に強くて優しい人だと思いました。

 

特典で頂いたクリアファイルです。

皆さんは誰がお好きですか?

 

考察

 

ここからは考察です。

タイトルの意味や、しんのが現れた理由、この物語のテーマはなんだったのかということを考えてみました。

 

『空の青さを知る』の意味

 

結論から言いますと、『地元愛』『住めば都』『原点回帰』『捉え方で物事の見え方は変わる』という意味だったのだと思います。

物語序盤、「この町は檻に閉じ込められている」的なことをあおいが言っていました。

田舎で何もないし、楽しいところでもない。

こんなところでは何も出来ない。

あおいにとって、秩父という町は自分を閉じ込める牢屋でした。

そう思う理由としては、あかねのことなどもあるでしょう。

その演出として、冒頭に葵がイヤホンを刺して演奏するシーンがありますね。

音響もそれに伴って閉塞感のあるものになっています。

自分の世界に閉じこもり、ひたすれに演奏に集中していました。

そして、「私はまだ探している。ーー願いが叶う場所を」という語りが入ります。

この段階で、あおいは自分ではなく環境や場所に何かを求めているということが分かります。

ここではないどこかに行きさえすれば何かが変わる。

そう信じているのが分かります。

自分と同じく、かつてそう信じていた慎之介と出会い、あおいは驚愕してしまいます。

慎之介自身も「東京に行けば何かが変わると思ってた」とあかねに打ち明けていましたね。

しかし結果は……。

という感じですね。

 

『井の中の蛙、大海を知らず。されど、空の青さを知る』というのはあかねが卒業アルバムに書いていた言葉です。

まさにあかねのためにあるような言葉で、この段階で自分の捉え方次第で見え方は変わるということを知っていたのだと思います。

そして、何をするにも自分自身ということもです。

『井の中の蛙、大海を知らず』はそのままの意味ですね。

狭い世界に住んでいて、そこを抜けた先の広い世界のことは分からない。

自分の世界が全てだと思っているというような意味です。

あかねを蛙と置き換えると分かりやすいと思います。

秩父という限られた世界で生き、様々なことから縛られていると揶揄されるあかねにはピッタリです。

ここに『空の青さを知る』を付け加えると、こうなります。

 

私は確かに秩父しか知らないけど、周りの山々に囲まれてるからこそ空の青さが映えて見える。

私はそのことを知っている。

両親が亡くなってしまったり、あおいを育てたりと大変。

でも、そんな他人と違う世界で生きてきたからこそ見えてきたものもあるし、私だけが知ってる世界がある。

周りが何と言っても、自分の考え方次第では物事の見え方は変わるよ。

 

こんな考えからあかねは卒業アルバムにこの言葉を書いたのだと思います。

あおいやしんのと違って、あかねだけはそのことに気付いていました。

それから物語が進んで、慎之介が秩父にライブをしに戻ってきます。

そこで、あかねが書いていたことを痛感するんですね。

全てを諦めて帰ってこようかと考えていた慎之介に対して、あかねは優しく背中を押しました。

 

“まだまだ諦めるのは早い。

やれると思えばなんだってやれる。

でも、戻ってくることで新たな一歩を踏み出す勇気が得られるなら戻ってきてもいいかもしれないね。

もし辛くなったら戻って来ればいいし、その時は私も待ってるから。”

 

という感じです。

 

ここは『空の青さを知る』の逆接のような意味を感じました。

一度離れたからこそ見えたものもあるし、魅力に気付けたのかもしれない、というような意味があるような気がしました。

慎之介にとって、13年ぶりに秩父に戻ることも、あかねとあおいに会うことも、全てが原点回帰になっていました。

新渡戸先生も「地元の愛を歌えない!」と言っていたことから、『地元愛』『原点回帰』というテーマがあったのではないかと思います。

慎之介が秩父出身だったことを知っていて、新渡戸先生は敢えて指名したのでしょう。

それが慎之介のこれからに繋がると、きっと信じていたのだと思います。

ふざけてるように見えて、実は思慮深い人なのではないでしょうか?

 

しんのが現れた理由

 

ここも気になるところですよね。

私が個人的に思ったのは『相反する二つの感情を持ったから』です。

もっと言うと『将来やあかねがいないことへの不安の現れ』ですね。

作中でも「ずっとこの場所にいたかったのかもしれない。本当は地元を離れるのが怖かったのかもしれない」というようなことを言っていました。

秩父を出てミュージシャンになりたいという感情と、あかねが一緒に来ないのであれば地元に残りたいという感情。

どちらも叶えようとした結果、慎之介が二人に分かれてしまったんだと思います。

他の作品で例えますと、青ブタの思春期症候群のようなものなのかもしれません。

 

↓青ブタってこんな作品です!

 

次に、あの見えない壁は何だったのかという点です。

結論から言いますと『しんの自身の心』だと思います。

秩父を出たくないと願ったことから、しんのは神社の中に閉じ込められてしまいました。

しんのが神社から抜け出すことができたのは、あかねを助けに行くと言った時です。

あおいの力も借りて、しんのはようやく神社を抜け出せました。

それまで抜け出せなかったのは、そうするまでの理由が無かったからです。

しんのにとって、あかねと一緒にいることが何をするにも前提になっています。

そして、そのあかねは地元に残りっぱなしです。

神社に残っていれば、直接的に会えないにしてもあかねのそばにいることができました。

だからこそ、しんのは神社を出られなかったのです。

心のどこかであかねと離れるということを拒み、ブレーキをかけていたのだと思います。

そのブレーキが、『見えない壁』となって具現化したのではないでしょうか?

しかし、そのあかねが事故に巻き込まれたとなればじっとしてられる訳がありません。

あかねを助けたいという感情が、心のブレーキを外しました。

 

しんのが神社から出られた理由はあかねが関係していますが、実はもう一つ抜け出すための鍵があります。

それが『自らの意思で何かをやり遂げる意思』です。

これが、しんのが神社から出られなかったもう一つの理由です。

しんのはどこか他人任せだったり、東京に行きさえすれば、という感情が根付いていました。

それは、作中の言動や行動で現れています。

中でも特徴的なのは、慎之介と会った時に「なんでお前はそこで突っ立ってんだよ」と言ったシーンです。

あかねが事故に巻き込まれたかもしれないという話を聞き、それに対する自分自身に怒りをぶつけるシーンですね。

あの時、慎之介は「連絡待ちか……」と言って、自分であかねを探しに行こうとしませんでした。

自分の好きな人で大切な人であるにも関わらず、平然としてる姿にしんのは激怒します。

しかし、それはしんの自身も同じだったんですね。

未来の姿である『慎之介』に行動を求めて、『しんの』は動こうとしませんでした。

もちろん、神社から出られないことを知っていたからというのはあると思います。

それでも、最初から自分で助けに行こうとすることもできたはずです。

これは、行動というより気持ち的な意味でです。

未来の自分とはいえ、自分と分裂してる『他人』な訳です。

自分相手に他人任せにするという構図でした。

そんな自分に呆れた結果、しんのは『自分』であかねを探しに行こうとします。

この『自分』というところが肝です。

環境や他人を頼りにするのではなく、自分自身が動くという意思が『見えない壁』を壊しました。

その気持ちこそが、壁を壊すためのトリガーだったのでしょう。

あかねの安否がキッカケになったとも考えられますね。

これはあかね自身にも言えることで、両親が亡くなったことがキッカケであおいの母になりました。

そして、その時に『空の青さを知る』という言葉を残しました。

自分の手であおいを育てていくという決意を固めた時ですね。

自分の手であかねを助けるという決意を固め、しんのはあかねと同じ心情になりました。

その後、あおいと一緒に空を飛びますが、あのシーンはまさにこの映画が一番伝えたかった部分だったと思います。

気持ちが変わり、今まで見えていなかった空の美しさにあおいとしんのは心を動かされます。

テーマである『捉え方で見え方は変わる』を表現していた瞬間でした。

もう一つの意味としては、『自分を信じてやってやろうと思えばなんでもできる』ということを表現していたと思います。

普通なら空を飛ぶなんておかしいだろということになりますが、視覚的に訴えかけることは非常に大きな効果があります。

長井監督が「整合性よりも登場人物の心情を優先した」と語るのはこういうことだったのかもしれませんね。

自分を信じれば空を飛ぶことだって、限界を超えることだってできる。

全ては自分自身だ、というメッセージを感じました。

 

あおいを除いた三人で車に乗るシーンで、しんのは姿を消しました。

しんのの影響を受けて、慎之介も変わりました。

あかねを必死に探し、ミュージシャンの夢もあかねも諦めないと宣言しました。

迷いに終止符を打ち、再び自分の足で歩こうとする姿を見て、「お前のようになってもいい」としんのは満足したんだと思います。

自分自身を肯定し、受け入れられた瞬間です。

更に、あかねが昆布ではなくツナマヨのおにぎりを作ろうと言ったのも大切ですね。

あかねが昆布のおにぎりを作り続けたのは、今まであおいのことに専念してきた結果です。

ツナマヨおにぎりを作ろうと言ったのは、あかねがあおいだけではなく慎之介とも向き合うという決意が現れたシーンです。

良い意味で、あかねはあおいから解放されました。

「あか姉は私に縛られてる」とあおいは言っていて、あかねはそれを否定していましたが、やはり思うところはあったのでしょう。

しんのは、あおいのために頑張るあかねが好きだということを言っていましたが、どこかで自分自身を見て欲しいと思っていたのではないでしょうか?

事情は分かってるけど、たまにでいいから自分のことも思い出して欲しいという気持ちがあったのだと思います。

 

“未来の自分は誇れる自分になった。

あかねも自分自身や慎之介と向き合ってくれるようになった。

もう何も心配ない。”

 

こんな気持ちから、満足して消えたのだと思います。

 

まとめ

 

『空の青さを知る人よ』は、忘れていた何かを思い出させてくれるような、そんな映画だったと思います。

多くの選択肢の中、自分は何を選ぶのか。

選んだ先はどうなっているのか。

もしうまくいかなかったらどうすればいいのか。

そんな部分を丁寧に描いていた作品でした。

三十代はもちろんのこと、高校生や社会人もターゲットになっていたと思います。

過去の作品と比べて少し大人っぽいと感じましたね。

人間の汚いところを繊細に表現していました。

そんな汚さから真正面に立ち向かうあおいは、「カッケーんすよ」って感じでした笑

 

最後に、私自身も小説を書いてますので、よろしければそちらも読んでみてください!

 

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